夏の学校の思いで
〜夏の学校 OB,OG に聞く〜

敬称略
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小林一昭(無機材研)

参加されたのは
第31回(1986年)、第32回(1987年)
準備局などの役員の経験は
ありません。
特に印象に残っている講義などは?
1986年(第31回)の時の米澤先生の講義は印象に残っています。
その他に特に記憶に残った出来事や思いでなどは?
実は講義、ゼミ後の飲み会は講義以上に記憶に残っていたりします。
1987年に参加した時は、出口(哲生)先生(当時 ”結び目理論”に関しての研究をやっておられて、 確かサブゼミでお話をされたように記憶しています)も参加されていて、 飲み会の時に、どうやっていろいろな紐の結び方を考えたのかと質問されて (多分筆者が質問した記憶があります)、ポケット(だったか)から 実際の紐を出して見せられた憶えがあります。
学生時代に夏の学校に参加したことが ご自分の研究人生にどう影響を与えたとお思いになりますか?
研究人生に影響を与えたと言うほど大袈裟ではないですが、 強い刺激を受けたことは確かです。
研究を志す若手の後輩たちにひとこと
物性といっても、現在は分野も非常に多岐に渡り、 それぞれが非常に細分化されてしまっていますが、逆にこれは、 ”学生であっても、その気があれば、(狭いとは言え) その分野の世界一(は無理でも、少なくとも最先端)になれる可能性がある。”、 と言うことを意味します。
是非とも、若手の皆さんには、(必ずしも、常に最先端がいいとは思っていないですが) 最先端な研究、本物の研究を目指して欲しいです。

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萱沼洋輔(大阪府大工)

夏の学校について
若手夏の学校には学生として2回参加しています。 1回目は確か1968年で素粒子若手の夏の学校(野沢温泉)、 2回目は1969年で物性若手夏の学校(白馬村)でした。 (私は途中で素粒子理論から物性理論に転向しました。) 世話人などをした経験はありません。

1968年という年は、大学紛争(東大闘争)がクライマックスと破局を迎えた年で、 夏の学校の雰囲気もかなり政治的に高揚していた記憶があります。 私は、野沢温泉の共同浴場の「はしご」をして、多分、全部入りました。 講義では、広島大学の小川修三先生の講義に出て、 直接、お話ができたことが記憶に残っています。 また、他大学に、Drコースの院生の段階で、 既に名を知られた仕事をしている人がいることを知り、圧迫感を受けました。
1969年の物性若手夏の学校では、政治の季節の終わりを感じました。そもそも、 素粒子と物性では学生、院生も含めて政治的スタンスの違いがあったと思います。 こちらは、友人と話しあったこと以外、講義の記憶は何も残っていません。

講師としては、昨年(2000年)(於 大山)の他に、 10年ほど以前にサブゼミの講師として参加したことがあります。(於 信州木島平)

昨年(2000年)は、講師として呼んで頂き、 早い段階から世話人の方と接触したこともあり、 初めて、夏の学校の運営形態なども知ることが出来ました。 たまたま、京大基研の研究部員をしていたので、補助金獲得のための努力も知りました。 大山では、若い方々が、企画立案の段階から全く自主的に運営されていることに 大変強い感銘を受けました。年寄りめきますが、「日本の若者は、まだまだ大丈夫」 という感じです。もっとも、集まった人達は、最優秀の層から来ているのだから 当然かも知れませんが。

自分の経験からも、夏の学校の価値は、知識の吸収よりは
  1. 名前だけ知っているシニアの先生をナマで知る。また、自分を売り込む。 (よい先生であれば、若手からも知識を吸収したがっているはず。)
  2. 他大学にお友達を作る。できればネットワークを作る。
というタテとヨコの人間の交流にあるのではないかと思います。 ポスターセッションも、もっと増やすとよいと思います。 (今回(第45回)は会場が狭かった。)

運営は大変と思いますが、是非、今後も絶やすことなく、続けて頂きたいと思います。 そのためにも、大いに宣伝をして、事務局への参加希望者が多くなるとよいと思います。

若い研究者の皆さんへ
私は自分を「永遠の若手」と思っているので、 あまり教訓めいたことは言いたくありませんが、 日頃感じていることをこの際言わせてもらいます。
物理でよい仕事をするためには、「きっちり勉強して、野性を失わない」ことが 大切ではないかと思います。物理学とくに物性物理は、 大変にカッチリとでき上がっている学問で、しかも数学的で難しい。 だが、それを学んでマスターすること自体は、ある程度以上の能力があれば出来ます。 その先が肝心で、物理の体系に圧倒されて平れ伏してしまう人が多い(特に秀才)。 私の知るかぎり、実験でも理論でも、よい仕事をした人は皆、 難しい物理を学んだ後も、自然に対する生の感性、何か面白いことを見つける嗅覚、 を磨滅させないで持っていた人だと思います。適度のヤマッ気というのも絶対必要です。 「俺は(私は)ヤマッ気が多いから・・・」と迷っている人は、 是非、研究者になって下さい。「きっちり勉強」と「野性」を両立させることが、 プロとして物理をやっていく上での本当の難しさではないかと思っています。

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大見 哲巨(京大理)

参加されたのは
確か、昭和40年(第10回(1965年))、M2のとき野沢での物性夏の学校に 参加しました。その前年のM1のときには素粒子、原子核の夏の学校にも 参加しています。
準備局などの役員の経験は
40年の夏の学校は所属していた名大が当番校でM2の私は兵隊として働きました。
特に印象に残っている講義などは?
久保亮五先生の多分「線形応答」講議を聞いていると思うのですが、 夜中まで起きていたので、講議中は眠くてあまり記憶がありません。
その他に特に記憶に残った出来事や思いでなどは?
あまりここに書くのは適当でないかもしれませんが 参加者のなかに事故に会われた方がいました。プールで水死された参加者がおられて、 役員をしていたDCの人たちは大変だっただろうと思います。 (
我々はこのようなことが決して起こらないよう、 最高の夏の学校にするべく準備を進めております。(第46回物性若手夏の学校準備局)
学生時代に夏の学校に参加したことが ご自分の研究人生にどう影響を与えたとお思いになりますか?
特に意識しませんが一緒に参加した人のなかに、 後で研究者として長い間つきあってきている人がいます。 そういう人に若いころ会えたということはいいことなのだろうと思います。

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目片 守(元 福井大工)

参加されたのは
第2回(1958年)〜第5回(1961年)
準備局などの役員の経験は
第2回(1958年)京大が当番の時手伝いました
特に印象に残っている講義などは?
金森順次郎さんや立木昌さんの講義やサブゼミの話は興味もあり為になりました。
その他に特に記憶に残った出来事や思いでなどは?
当時は配膳から便所掃除まで自分らでやらなければならなかったので、 半ばピクニックの気分でした。旅行が不自由な時代だったので、夏の学校の後、 仲間と信州の山へ行ったのはよい思い出で、おかげで山が病みつきになりました。
学生時代に夏の学校に参加したことが ご自分の研究人生にどう影響を与えたとお思いになりますか?
普段聞けない講義を詳しく聴けたり、先生と話ができたことは もちろん有意義なことでしたが、それ以上に東大や阪大など 他大学の同世代の人たちと親しくなれたことは、後々大きな財産になりました。 これまで研究の上でもキャリアーの上でも 夏の学校で知った多くの友人のお世話になることができました。
研究を志す若手の後輩たちにひとこと
個々の研究室が充実している現在、研究室の中だけでも十分議論ができ、 立派な論文を書くことができるようになりましたが、 バックグラウンドの違う余所の研究者と交流することは 自分の仕事を見直し新しい世界を拓く上で重要なことです。科学は論文だけでなく、 ソサイエティの中で育まれ進歩するものです。また、論文を読むときも 書いた人の顔が思い浮かぶようになると頭に入り方が違いますし、 親身になって自分の論文を読んで批判してくれる人がいることは貴重です。 夏の学校は最も手っ取り早く同世代の人や教科書や論文でしか知らない人と知り合う機会です。 数日ですが寝食をともにすると、学会でのよそ行きの顔とは違った付き合いができます。 さらに多くの知己を得るためには、夏の学校に行くだけでなく、 積極的に運営に参加するのがおすすめです。

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西野友年(神戸大理)

参加されたのは
第 33, 34, 35 回(1988, 1989, 1990年)です。
校長をされていたとおうかがいしていますが、 夏の学校の運営にたずさわるようになったきっかけは何ですか?
第 20 回 (史上最大の夏の学校) の主催者・赤井久純氏
第 26 回のスタッフ・菊池誠氏
  (お二人とも当時は大学院生で、今は阪大教授)
--- (その他歴代の夏の学校参加者) が、当時私が所属していた 金森研究室スタッフだったという事情により、 金森研に入った段階から既に運命が決定付けられていた。
夏の学校の運営をやって楽しかったこと、 大変だったことは何ですか?
楽しかったこと: 勉強をサボってお祭り騒ぎができた。
大変だったこと: 会場設営と撤収、相次ぐ機材の故障と補修。 アマチュア科学者のボランティア講議申し出を丁重にお断りしたこと。
特に印象に残っている講義などは?
講議内容は、結局のところ忘れてしまいました。
その他に特に記憶に残った出来事や思いでなどは?
毎日、夕食の出食数をホテルに伝える必要があるのですが、 出し過ぎると余ってしまって、余分な支出となります。 ですから、夕食は当日の宿泊者数ギリギリしか用意してなかったのです。 ところが....講師の先生が、御家族連れでやって来られて「夕食もお願いします」と。 夏の学校スタッフはその夜、疲労と空腹で睡眠が浅かったことは言うまでもありません。
学生時代に夏の学校に参加したことが ご自分の研究人生にどう影響を与えたとお思いになりますか?
何ごとにも、まずは体を動かすことが大切だと思うようになったかもしれないです。
研究を志す若手の後輩たちにひとこと
夏の学校に参加して、夜はあちこちの部屋を回って飲みまくりましょう。 意外と長い付き合いになること間違いナシ。
スタッフ様へ: 私が (夏の学校の) 先輩から受けた有り難いお言葉 「会場も講議もどうでもいいけど、メシだけはケチるな。 メシが不味いと全てが台無しになる」これは本当です。

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田崎 晴明(学習院大理)

参加されたのは

×回(× 年)
「M1 は全員行くものだ」と研究室の人に言われて、ともかく参加。 着いてみると、 天気は悪いし、同じ大学の人はわざと別室にするとかいう 押しつけがましい管理主義的な方針で、気分が悪かったのを覚えている。

でも、たしかに、知り合いもできたし、講義やゼミもそれなりに面白かった。

× 回(× 年)
準備局メンバーとして参加。

× 回(199x 年)
サブゼミで量子スピン系の講義をさせていただくことになり、参加。

このときの講義を聴いてくださった方のなかから、その方面の研究を本格的に 手がけることになった人も複数いるので、それなりの意味があったように思う。 後日、講義ノートをまとめて物性研究に出版して、 これも、割と読んでもらっているみたい。

ただし、このときの準備校は(も)かなり管理主義的で、 食事をするにもあらかじめもらったチケットにはさみをいれてもらわなくてはいけないし (二度食いする奴いるか??もし、どうしても腹が減るんだったら食わせてやればいいじゃん)、 さらに悪いことには、サブゼミや講義についても、入り口に係りの人がいて、 またしてもカードか何かをチェックしてから入る仕組みになっていた。 最初に出ると決めた講義やサブゼミに出続けなくてはいけない、ということらしい。 夏の学校なんだから、出入り自由で、聞きたいものを聞きたいときに聞けばいいのだ。 せっかくの若手夏の学校でまでそんな風に管理するなよ。 それに、担当のゼミの入り口で「見張り」をさせらている準備校の学生さんがすごくかわいそう。 準備をやっている人たちも、よっぽどのことがないかぎりは、 普通の参加者と同じように、聞きたいものを聞いたり人としゃべったりして過ごすべきなんだ。 物理っていうのは究極的に限りなく自由な学問なんだから、それを学ぼうっていうのに、 こんな管理主義的じゃやだよ --- という風に、かなり頭に来たのであった。 (なんか文句ばっかり。でも、今でもこれは愚行だと思っている。)

校長をされていたとおうかがいしていますが、 夏の学校の運営にたずさわるようになったきっかけは何ですか?

進んでやったわけではないです。

ぼく自身は、一回でれば十分だと思っていて、もう行く気はなかった。 ところが、一年上の人が、×年の夏の学校に出席して、 勝手に東大が準備校をやることを引き受けてきて、 しかも、その直後にどこかの助手になって「田崎君頼むよ」かなんか言い残して、 いなくなってしまったのだ。 二十年近くたってもひどい話だと思う。
今さら断るわけにはいかないし、当時の大学院の物性関係のメンバーを眺めて、 これは、やはり院生の集中している統計物理・物性理論関係の研究室のメンバーでやるのが もっとも能率的だと判断。 (e-mail なんて、ごく一部の高エネルギー実験家だけが使っていた時代。 遠方との連絡は、電話か郵便だった。今とは事情がまったくちがいます。) しかたなく、ぼくらが準備をする決断をしたのでした。 そういう意味で、ちっとも「美談」ではないのです。

夏の学校の運営をやって楽しかったこと、 大変だったことは何ですか?

大変だったことは、多いはずですが、忘れました。

「楽しかったこと」には色々なレベルがあります。(伝説と化した 「シュレディンガー音頭」 がはじめて大勢の人の前で披露されたとき司会のマイクを握っていたこととか。) あえて、かっこいいことを言えば、夏の学校の運営に、 ぼくたちなりの考えやカラーを持ち込むことができたことでしょうか。

たとえば、ぼくらが担当するより前の夏の学校には、 いわゆる「政治的な」話し合いをする場もあって、 何か「決議」みたいなのをあげたりしていたようです。(よく知らない。) しかし、これは完全に形骸化しきっていて存在意義がなかった(と、ぼくたちは、思った)。 それで、ぼくらは、あっさりと総会を廃止し、 そのかわり、全参加者が集まる飲み会的なものだけを開いたのでした。 (そこで、シュレディンガー音頭が披露された。)

若手が、研究・教育の体制について議論する場をなくしたのはけしからん、 というご意見がありうるのはよく分かっています。 しかし、夏の学校の参加者のほとんどはマスターの1年生でした。右も左も分からず、 研究しながら人生の一時期を生きるというのがどういう意味なのかを知ろうとしている人たちです。 その人たちを集めて、いきなり、「日本の研究体制にはかくかくしかじかの問題があり」 とやっても、意味のある話し合いができる可能性はきわめて低いとぼくらは判断したのです。 それは正しかったと今でも思っています。(それにしても、教育制度の思いつきでの改悪、 先の見通しに立脚しないポスドク制度など、困ったものが次々と湧いて出てくるのをみると、 幅広い研究者の層がもっと「政治的な」声をあげるべきなのかもしれない、 という気もします。もちろん、夏の学校とは別に。)

それで、「政治色」を一切なくして、そのかわり、 「夏の学校というのは(真面目な意味で)出会いの場」なのだ、 というポリシーを前面に出しました。

そして、なるべく管理しない。 なるべく縛らない。 で、ぼくら準備校のメンバーも、特別に犠牲になって奉仕する立場なんかじゃなく、 できるかぎり、夏の学校を楽しむ。

ぼくらが作った 84 年の夏の学校のテキストの最初にある次の文章は、そのへんのこ とを、偉そうに書いたものです。 (ぼくが書いて、他の仲間の意見を入れて、書き直した。)

さて、夏の学校とは、云うまでもなく、物性を研究している若手の方大勢にひとつの 場所に集まっていただく催しです。我々準備局スタッフは単に集まる場所を用意する 世話役に過ぎません。勿論、講義・サブゼミ・ポスターセッションという夏の学校の 三つの主要メニューについては、面白いものになるように我々としても精一杯の準備 を進めてきました。しかし、本質的には、夏の学校に何を求め、何を得るか、何を求 めず、何を得ないかは全て参加される皆さんにまかされています。

実際、もし物性物理が今でも学問として生きているならば --- そこで研究・教育の体制化・権威主義化、価値観・方法の画一化・固定化が 進行しきっていないならば --- それを反映して、「若手研究者たち」というものは極めて種々雑多、 無秩序な集団でなければならないはずです。それら活気ある無秩序の人々に 共通の目的を課し、同じひとつの意義を押しつける事は不自然であり、 冒涜的でさえあります。それ故、夏の学校は、理念的には放任主義に徹してこそ 意義深いものになり得ると我々は考えるのです。

物性の研究室の中には、研究に於いても先生と学生のつながりを重んじる ギルド的色彩の強い所もあるという意見を耳にする事もあります。 たとえば、そのような縦の秩序のついよい日常をおくっている人が、 横の世界の無秩序、ひいては物理のもつ活気ある無秩序を、 五日の間に少しでも実感できたならば、それは夏の学校の極めて意味のある過ごし方の ひとつであると云えるでしょう。

ぼくが、今でも言ったり書いたりしているようなことが書いてあり(今、添削すると、 ちょっと漢字を多用しすぎだ)個人的にはおもしろい。

特に印象に残っている講義などは?

ま、自分の講義ですね。 こっちも、やるからには、というのですごいエネルギーだったし、 聞く方もきわめて熱心だった。

M1 のときの久保先生の講義で、 「宇宙という一つしかない対象に統計力学を適用することができるか?」 と質問したのだけれど、明快に答えてもらえなかったのもなんとなく覚えている。 (今のぼくは、一応の答をもっているつもりなのだが。)

その他に特に記憶に残った出来事や思いでなどは?

あります。でも書かないのだ。

学生時代に夏の学校に参加したことが ご自分の研究人生にどう影響を与えたとお思いになりますか?

そういう影響は、ないでしょう。 (ぼくが、物事をそういう風に考える人ではないというだけのことかもしれないけれど。)

研究を志す若手の後輩たちにひとこと

ぼく自身、まだ試行錯誤をつづけながら、研究しているわけで、 偉そうなことはいえませんが;

実際に、研究を本格的にやり始めると、ひとつのことを深く深く、 徹底的に研究することになります。必然的に視野が狭くなるし、オタク的もなる。 これはまったくもって避けがたいことで、ぼくたちは、そうやって力を集中することで、 新しい知見を得たり、今まで解けなかった課題を解いたりするわけです。

しかし、ただの職人ではなく、科学者として研究に参加するつもりなら (←別に一生プロでやることを想定しているのではない。 (プロのなかにも単なる職人は少なくない。)大学院の間だけでも、 精神的には「プロの科学者」として科学に参加することはできる)、 その狭く深いところに入りっぱなしになってはいけないと思う。 ときどき地上に顔を出して、自分が関わっていることが、 物理のもっと広い風景のなかでどこに位置しているのか、 自分の目標が達成されたとき、物理の世界の景色はどう変わりうるのか、 どう変えたいのか、といったことにも思いを馳せてください。 これは、短期的に見れば時間のムダかもしれないですが、長い目で見れば、 かならずや研究にプラスになるでしょう。万が一、研究にプラスにならなくても、 科学者としての人生(の一時期)にはプラスになるはずです。

科学の研究の道というのは、とてもきびしいものです。ぼくには、 どこかの宇宙飛行士みたいに、「夢はかならずかないます!」なんて 明らかな嘘をつくことはできません。どんなに強く夢を持っていても、 それがまったくかなわないことは、あります。 確実にいえるのは、「夢を持たなくなったら、それで終わり」という厳しい事実でしょう。 物理学に素朴に憧れたときの「わくわく感」を忘れずに、厳しく、一生懸命に、 そして、楽しく研究に打ち込んでください。やたら月並みな結びになってしまいましたが、 ぼくも、自分にそう言い聞かせながら、がんばろうと思います。

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